あの旅・1994


1994年9月、僕は再びシドニーに渡った。永住するつもりだった。
だから、それまでしがみついていたいろいろなものを処分した。
車や家具、漫画やカメラのコレクション、売れるものはすべて売ってお金に換えた。
執着をすべてなくしたかった。
新しい自分として、再スタートしたかった。


とりあえず、シドニーの友人のアキの家に転がり込み、永住権を取ろうと思った。
別の友達がオーストラリア支社を作ろうと動いていて、それに関連して永住権がとれる予定だった。
でも一ヶ月しても二ヶ月しても、事態は全く進展しなかった。
その間、僕はバリ島やブリスベンでの友人の結婚式を含め、短い旅に何度か出て、写真を撮った。
アキはオーストラリアでのキャンプ、テントの旅の基本を、山の国立公園まで連れて行って
僕に教えてくれた。


滞在ビザが切れ、国外に出なければならなくなり、一番安かったニューカレドニアに
一週間の旅をした。
金を使わない観光地ニューカレドニアの旅は、面白くなかった。
離島へ行けば楽園の写真が撮れそうだったが、何をするにもすべてが高かった。
風が強かったことと、ホテル生活なのに外食をせず、スーパーで買ったフランスパンと
ハムチーズばかり食べていたことしか覚えていない。でも、これがうまかった。
写真もあまり撮らなかった。
不完全燃焼のリゾートの旅を終え、シドニーに戻った。


クリスマスの頃には永住権の話を諦め、旅に出ることにした。
中古の車とテントとガスバーナーを買い、クリスマスの翌日、西オーストラリアを目指し
旅に出た。
この旅では、本当にたくさん写真を撮った。そのための毎日だった。
大きな町に着くと、フィルムを現像した。
未現像のフィルムを気温40度の車の中で保管するのは不安で、なるべく早く現像したかった。
現像上がりの写真をルーペで見て、次はこうしよう、ああしようというのが習慣になった。
失敗をすぐに確認して、対策を考える。
この時に僕の写真技術は育成されたと思う。
同じ失敗をしないためにはどうしたらいいか、それをいつも考えることだった。


西オーストラリアへの旅はすごかった。
広大な手つかずの大自然、気温は毎日40度。
来る日も来る日もペットショップボーイズのゴーウエストを車内でかけ、西へ向かった。
片道5000キロ。
ナラボー平原では、460キロの直線道路。
その間、ガソリンスタンドを兼ねた小さな店が一つ。
その裏手には真っ白いユークラの大砂丘。
雪景色のような、シルクの絨毯を敷き詰めたような、初めて見る風景に本当に驚き、
「こんな場所が地球にはあるんだ!」と興奮した。


このナラボーを抜けるか抜けないかのところで車が故障し、全く動かなくなった。
打つ手もなく、待つこと一時間。
車で通りかかった人が、50キロ先の町まで牽引してくれた。
地獄に仏。助けてくれた人Mr.SWANの顔が、神々しくさえ見えた。
そして、約20日かけて西オーストラリアの州都パースに着いた。


それから西オーストラリアを車で走り回った。
今でも撮影に行くなら、一番行きたい場所だ。
町と町の間の距離がとにかく長い。
次のマクドナルドまで200Kmなんていう看板ばかり。
原始の地球の風景、極端な気温と乾燥。
滅多に会わない人間、普通にそこらにいる野生動物、地平線に昇り沈む太陽。
夜は満点の星空。プラネタリウムなんて目じゃない。
海にはイルカやジュゴン、ウミガメが本当にすぐそこにいる。


約40日放浪したあと、パースの友達の家に転がり込んだ。
「何か、日本が大変なことになってるよ」と言われ、テレビをつけてみたら
神戸の地震の映像が映っていた。
「そろそろ帰るころかな」
今まで撮ってきた写真もまとめたいし、一度日本に帰ろうと思った。


シドニーまでの帰り道は、急いで約10日。
途中、砂嵐に巻き込まれたのが印象的で、赤土の砂嵐は美しかった。
再びアキの家に戻り、車を売ることから始めた。
トレーディングポストという個人売買の新聞に広告を出し、10日ほどで車は売れた。
格安のバリ経由のチケットを買い、日本に再び戻ることにした。


一週間滞在するつもりだったバリ島では、また大事件が待っていたのだが、
その話はまたいつか・・・。



2006年7月9日

HABU