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旅の続き・もう一度
1988年4月、32歳の僕はオーストラリアから日本に戻って来た。
帰る間際の数週間は、とても暗い気持ちだった。 帰って何をするのか選択肢はいくつかあって、 1.写真学校に入る 2.誘ってくれる会社に就職する 3.会社員時代に培った経験をもとに独立する 4.あくまで写真家の道を進む そんなことを考えながらの旅は、はっきりいって楽しめなかったし、 写真を撮る気持ちも萎えがちだった。 でも、結局8ヶ月で僕は帰って来た。 帰って来たら世間は何も変わっていなかったが、僕はずいぶん変わっていた。 帰った当初、人混みが嫌で渋谷のスクランブル交差点に立って足がすくんだ。 何ヶ月も自然の中で暮らしていた僕は、都会の生活を楽しいと思えなかった。 意を決してあちこちの会社やデザイナーに写真を見せに行ったが、これといって 仕事にはならなかった。 僕は当時住んでいた青山の小さな部屋に引きこもり、日中はドラゴンクエストをやって 夜は酒を飲む、そんな毎日が数ヶ月続いた。 ある日、友人のカメラマンが遊びに来た。 子供服の撮影で、外国人モデルを使って豊島園で撮ろうと思っている仕事があるのだが、 出来たら同じ予算でオーストラリアへ行けないか、という相談を受けた。 金のかからない旅なら任せておけということで、カメラマン、デザイナー、そして僕の 3人でシドニーに行くことになった。 安宿に泊まり、モデルは僕の友達の子供をかきあつめ、撮影は2日で終わった。 そして、残ったお金で僕らはレンタカーを借り、10日間ほどシドニーからブリスベンまで 自分達のために旅をした。 みんなのギャラはそれで使ってしまったけれど、最高に楽しい旅だった。 その旅の経験から、これは何か出来そうだと思うようになっていた。 そこにコンサルタントとして独立したかつての上司から、企画の会社をやらないかという話をもらった。 サラリーマン時代にやっていた広告宣伝、イベント等を企画する仕事。 仕事は彼が持って来るという。 結局、帰国して2年後に「株式会社ネイバーズ」を設立し、なんと、僕が社長になった。 会社名は、英語の勉強のために毎週観ていたオーストラリアのテレビドラマから取った。 当時、オーストラリアは色んな意味で人気が出る前で、現地にネットワークがあった僕の企画は 面白いように採用され、撮影隊を組んで何度もロケに行った。 カメラマンはいつも別にいたが、僕はその度に自分の写真を撮り溜めていった。 ネイバーズの仕事は順調で、他にもお店やブランドのロゴやパッケージのデザイン、 ファッションショーの企画、カタログ制作など企画から制作まで何でもやった。 仕事は面白かったし、儲かった。 仕事に絡めて何度もオーストラリアに行き、自分の写真を撮り続けることも出来た。 そして、その間に結婚もした。 2年ほどしてバブルがはじけた。 仕事が段々と減り始め、従業員を抱えていたこともあって次第に資金繰りに困るようになり、 入る仕事の質も予算も落ちていった。 会社は儲からなくなりつつあったが、それでも忙しかった。 ある日、電卓をたたきながら思った。 「僕はこんなことをするために会社を辞めたんだっけ・・・」 そんな時、気軽な気持ちで応募したJPS(日本写真家協会)が主催する写真展に僕の作品が入選した。 入選作を展示する写真展が東京都美術館で行われたので、観に行った。 たくさんの入選作と会員であるプロの展示作品の中に、一枚の自分の写真が飾られていた。 僕にはその一枚が200点はあろう作品の中で、一番光って見えた。 僕が好きな写真は有名な誰かの写真ではなくて、自分の写真なんだということを知った。 数ヶ月後、友人の紹介で渋谷にあった「旅のギャラリー」という小さなギャラリーで 初めての写真展をやることになった。 小さな会場で40点ほどの展示だったが、自分の世界を表現するために真剣だった。 ちょっと大きめのプリントを作り、部屋の床に並べて何を展示しようか、どう展示しようかと 椅子の上に立って作品群を眺め、何日も考えた。 そして、額を買い、タイトルをつけ、展示の番号を考え、照明を当てた・・・。 たった一週間の展示だったが、毎日自分の写真達と向かい合い、自分が何を表現したいのかを 見つめた。 最終日、毎日その会場のお掃除に来ていたおばちゃんがどうしても欲しいといって、ある作品を 買ってくれた。 僕の写真が初めて売れた瞬間だった。 嬉しくて、タダであげたいくらいだった。 この2つの出来事が、忘れかけていた「写真家」という夢を思い出させてくれ、 自分を信じるきっかけと、出来るかもしれないという勇気を僕にくれた。 結局3年で会社をたたみ、再びオーストラリアに行くことを決めた。 写真家としてもう一度夢にチャレンジすること、そして移住を前提にオーストラリアへ渡る 覚悟の証として、家財道具や車を売り払い、仕事を整理し、戻る場所をなくした。 すっかり身軽になって1994年9月、僕は再びシドニーに向かった。 2006年4月22日 HABU |