旅は続く


2回目の旅は一人旅。南の都市、メルボルン方面に向かった。
運悪く連休に重なり、宿が見つからない。どこへ行っても断られ、仕方なくどんどん先へ進む。
次の町なら宿があるかもしれないと、100キロ先の町を目指すも、そこでも宿はない。
そのうち、辺りは真っ暗になり、車と出会うこともなくなる。
オーストラリアの田舎は夜行性の野生動物が多く、大きなカンガルーとぶつかる事故も多いため、
夜はあまり田舎道を走らない。


星明かりに、不気味な枯れ木の並木道が続く。前も後ろも町は遥か彼方だ。
その時、突然ポン!とヘッドライトが消えた。100キロ以上出していた僕は、パニックになった。
慌ててブレーキを踏み、スピンして車は路肩に乗り上げた。
幸い怪我はなかったが、どうして良いか分からない。
車を懐中電灯で点検したところ、特に大きな損傷はなかった。
取り敢えず町に戻ろうとするが、ライトは点かないし、周りは見渡す限りの闇。
ハザードランプをつけ、その明るさを頼りにゆっくりと一時間以上かけて、町に辿り着いた。
この時程焦ったことはなかった。町の明かりが見えた時は助かったという思いで、体中の力が
抜けるようだった。


街灯の下で点検してみると、単なるヒューズ切れだった。
予備のヒューズと交換して、ヘッドライトは生き返った。
気を取り直して、再スタート。
ところが夜も更けてきて、出会う車は全くない。またライトが切れたらと、先程の恐怖が時々蘇る。
2時間程して次の町に着いた時はもう夜中だったので、宿は諦め、手頃な街頭の下に車を止めて
眠ることにした。


街灯の明かり・文明・人のいる場所。その感覚が本当にありがたかった。
今は荒野に一人テントでいても快適なものだが、あの頃は闇やそこに潜んでいそうな魑魅魍魎
が怖かった。


翌朝、夜明けとともに出発。
牧場で眠っている牛の周りを朝もやが漂う光景は、言葉に出来ないほど美しかった。
感動した途端、昨夜の恐怖を忘れた。
その後も、ぽんこつシビックのHUB230は何度も走行不能になったが、その度に運良く窮地を脱した。


この頃泊まっていたのは、値段の安いモーテルか、パブという酒場の2階の部屋だった。
モーテルは日本のとは違い、純粋に車で旅する人のための宿で、パブには地元の常連が毎日
やってくる。
よそ者は珍しいからか、どこから来たのか、どこへ行くのか、おごりだ一杯飲めと話し掛けて
くれるので、僕は写真家でこの辺りの景色のいい所を教えてくれと、酔っぱらいに頼む。
すると、自分が女を口説く時に連れて行く場所はここだとか、俺のリラックスポイントはここだ
などど、眺めのいい場所を教えてくれる。
翌朝その場所を探し、写真を撮る。そんなことを繰り返す旅だった。


その後、ルームメイトだったヒデとは2ヶ月以上一緒に旅した。
40度を超える灼熱の大地。クーラーの効かない車。
アイスボックスに氷を入れ、そこでぬれタオルを冷やす。
そのタオルで腕や顔、首筋を濡らし風にあたるとひんやりとして気持ちいい。
それを繰り返しながら、大地をさまよった。
最初のうちは話も弾むが、段々に話題も尽きてきて、そのうちお互いに無口になる。
そしてどこまでも続く、全く変わらない景色。
運転してない時は何かを考えているが、考えることも尽きてくる。
のぼせ気味のぼーっとした頭は半瞑想状態になり、突然、小学校一年生のある一日のことを
克明に思い出す。


朝何があったんだっけ、あの日。
学校へ誰と行って、下駄箱は何段目で、机は前から3番目。
隣は誰で、一時間目は国語で、先生にこんな質問をされて答えられなくて・・・。
時々、そんなフラッシュバックがくる。
面白いので、この思い出しゲームにはまり、なるべくノートに書き留めることにした。


夕方はいつも大切な時。
3時か4時には宿泊先を決め、まず夕食とビールかワインを調達し、見知らぬ町を散歩しながら、
撮影ポイントを探す。
一休みした後、夕陽の撮影に出掛ける。


知り合いのいる町に着くと、取り敢えず2〜3日居候を決め込む。
オージーは結構、嫌な顔ひとつせず何日でも泊めてくれる。
ビールを2ダースほどお土産に持っていけば、それでいい。
飲みながら、毎晩熱く語る。英語だって問題ない。酔っぱらえば、気持ちは伝わる。
寝る場所はどこでもいい。ソファー・床・運が良ければゲスト用ベッド。


大きな町なら、撮って来たフィルムを現像に出す。
40度を越すこともしばしばの暑い道中、熱に敏感な未現像のフィルムを溜め込むのは不安だった。
現像上がりのフィルムをチェックし、失敗に落ち込み、何故失敗したかを考える。
そして、次の撮影ではこうしよう、ああしようと思うことで、僕の撮影技術は養われた。


こうして広いオーストラリアの約半分を、半年かけて走り回った。
あてもなく地平線の世界をさまよいながら、写真家になりたいという僕の思いは、
どんどん強くなっていった。



2005年11月16日

HABU