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オーストラリアでの生活
1987年9月
シドニーに渡った僕が最初に住んだのは、北の郊外(Lindfield)の何軒もの古い大きな家を、 一部屋ずつ週単位で貸しているゲストハウス。 食堂での朝食と夕食がついて、当時は週15,000円くらいだった。 9月のシドニーは春。強い花の香りが住宅街に漂っていた。 ゲストハウスには日本人も多く住んでいて、何人かとはすぐ友達になった。 学校も同じという人もいて、いろいろ教えてくれた。 部屋は大きさによって値段が違う。 僕の部屋は比較的大きく、テレビも冷蔵庫もあったので、毎晩の酒盛りの会場になった。 学校は電車で15分ほどのシティの中心部にあり、一クラス15人ほどで5人が日本人だった。 他は、韓国・中国・タイ・インドネシア・スイス人など。 留学生はみな、どこか心細く、国籍に関係なくすぐ友達になれた。 10年ぶりの学生生活は最高に楽しく、充実したものだった。 僕は10週間その学校に通ったが、分かったことは英語は知識より慣れだということ。 自分が知ってる単語でなんとか思いを伝えることが出来るということ。 みんな片言なので、恥ずかしくはなかった。 聞く方はなかなか上達しなかったが、暇な時間に見るテレビや流しっぱなしのラジオを 聞いているうちに、段々耳が慣れていった。 ひと月ゲストハウスに住んだ後、4人の日本人でフラット(マンション)を借りよう ということになった。 不動産屋を回り、物件を選び、Artarmonという場所の西向き2階の2LDKを借りた。 電話を引き、テレビやラジカセやベッドのマットレスなどを買った。 大きなベッドのマットレスを電車で運んだり、買った中古のテレビがすぐ壊れたり、 日々ドタバタの失敗ばかりだったが、いい経験になった。 丘の上だったので、ベランダは見晴らしが良かった。 学校から帰ると、毎日音楽をかけ、夕陽を見ながらワインを飲んだ。 その当時、4リットルのワインが800円という安さ。酒好きの僕にはたまらない。 毎日、今日の夕焼けは何点などと言いながら、ゴキゲンだった。 フラットでは毎週末、土曜日にパーティをやった。 みんなのクラスメイトや先生、新しい友達を招待して、僕らは日本食を作った。 同居人はそれぞれ違うクラスだったので、中国人・韓国人・インドネシア人・タイ人、 先生のオージー、他のクラスの日本人などが、食べ物やワインやビールを持って集まった。 みんなそのパーティを楽しみ、僕は楽しそうなみんなの写真をモノクロで撮った。 そして、飾るものが何もない殺風景な壁に、その写真をぺたぺたと貼っていった。 あの頃のことを今思うと、とてもオープンで誰とでも友達になれた自分がいる。 相手との間に壁を作らず、とりあえず一対一の同じ条件での出会い。 相手に興味を持つ、年齢の差など関係ない、みんな友人に飢えていた。 だから心を裸にして語り合う。そんなスペースだった気がする。 今もあの当時の仲間とは一部交流があるが、会えば、あの時のままの自分達がいる。 見るもの全てが輝いて見え、とにかく写真を撮りまくった。 通常はカラーのリバーサルフィルムで撮っていたが、撮った写真はすぐ現像して同居人や 友人達に見せた。 みんなの感想がダイレクトに伝わって来て、励みになった。 写真を勉強しようと持っていった本が、理論的・科学的なことばかりでさっぱり理解出来ず、 とりあえず技術的なことにはこだわらず、気の向くままに露出優先オートで撮ることにしていたが、 様々なフィルターを使ってみたり、夜の風景を撮ったりと、自分なりの研究は楽しんでいた。 クリスマスが過ぎ、僕の英語のコースも終わり、そろそろ旅に出ることを考え出した。 トレーディングポストという個人売買の新聞から安い中古車を探し、買いに行った。 ぽんこつ格安のシビック。でも、エンジンは新しいのに乗せ変えてあるという。 なんとナンバーはHUB230だ。 ハブ!・・・・・迷わず買った。 買った次の日に、窓を上げ下ろしするハンドルが折れた・・・。 高速道路に入ると、風圧でボンネットが開いた!!! 年が明け、同居人の一人のトラを誘い、まず内陸へ向けて4日間ほどの短い旅に出た。 シドニーを出て一時間ほどで、地平線とどこまでも続くまっすぐな道に出会った。 思わず声が出た。 果てしない夏枯れの牧草地は、金色の草の海。 青よりも紺色と言った方が似合う、空の色。 込み上げる気持ちを抑えきれずに僕は叫んでいた。 やった、俺は自由だ! 2005年8月17日 HABU |
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