大学を出て


僕が大学を出て就職したのは、当時約200店舗を抱える、大手婦人衣料専門チェーン。
ブランド展開も製造もファッションビルまで手がける伸び盛りの会社でした。
音楽をあきらめ、ファッションの広告宣伝をやりたかった僕は、入社面接のとき
「君ならそういう職種にすぐなれる」という甘い言葉に誘われて、広告代理店などの
可能性を捨ててその会社を選びました。


配属されたのは新宿店。紀伊国屋本店の斜め前。
最初の3ヶ月は掃除ばかりでした。朝は店の前の新宿通の掃除。
三越や伊勢丹に通勤するかつての同級生に「おまえ何やってんだ」と聞かれ、
恥ずかしい思いをしたりしました。
床のガム取りは大変でした。なかなか取れないんです。へらでこすり取る。
朝から晩まで何百とある店中の鏡拭き、なんていう日もありました。


3ヶ月が過ぎ、配属されたのは4階のスカート売り場。
試着室に付いて、セールストークをさせられました。
ここでは主に接客を学びましたが、恥ずかしくてなかなかお客さんに声をかけられず、
自信喪失。
次に忙しくなってきた水着売り場。毎週末にだんだん拡大。
売り場のレイアウト替えを毎週やるんです。徹夜、深夜残業がざらの日々。
日中はレジ打ちや、試着の戻りをハンガーに付け直す。
忙しくてもたつくと、自分より年下の女性販売員に怒鳴りつけられる。ずたずたの毎日でした。
秋になったらコート売り場。冬は靴下、手袋アクセサリー売り場。
時には店頭で新宿通に向かい、マイクを握って客の呼び込み。
毎日が大騒ぎでした。
休みもろくにもらえず、残業の日々。こんなはずじゃなかった。
でも、入社したとき、3年は辞めないで我慢しようと誓っていました。
3年。中学でも高校でもそうだったように、3年いたら何となく居心地よくなると思っていたからです。


入社して一年半、水着のシーズンが終わったとき、やっと新宿店の販売促進担当に任命されました。
やりたかった広告宣伝です。
与えられた予算はわずかで、バーゲンのダイレクトメールを出したらおしまいです。
そこで僕が考えたのは一等地である店舗を、ミュージシャンや映画のプロモーションの場に
使ってもらうことでした。
幸い大学時代バンドをやっていたので、業界に進んだたくさんの友人が賛同してくれて、
毎週末お金をかけずにイベントを組むことが出来ました。
店のスタッフのなかのファッションに敏感な人と組んで、トレンド情報のチラシも作りました。
今考えれば笑っちゃいますが、手書きの原稿、イラストをコピーして、お客さんに配ってました。
1979年。


そんな努力が認められたのか、3年目の春に軽井沢のファッションビルの広告担当に任命されました。
ローカルのテレビCM、ポスター、情報誌を夏のオープン前に実施して、予算は使い切りました。
あとは日々、ビルの掃除、自転車の整理、深夜の巡回などが仕事でした。
これじゃつまらん、ということで、またお金のかからないプロモーションイベントを誘致。
新人アーティストを紹介する番組を毎週、中庭の特設スタジオからオンエアしました。
ローカルの放送局でしたが、週末はなんだか華やかな気分で仕事をしていました。
それにしても、あの時の寮生活はすごい経験でした。
6畳に2段ベッド3つ。プライバシーなんて、なし。
毎晩ヘトヘトになって倒れ込む。残業代が基本給を上回る日々。
でも、みんな若かったので、面白いこともたくさんありました。いい思い出です。


夏が終わり、仕事ぶりが評価されたのか、青山のファンションビルの宣伝やイベントを
担当させてもらえることになりました。入社して2年半でした。
それから3年間が、そのビルの販促宣伝担当。
続いて本社の販売促進部、広告宣伝担当を約4年勤めて、退社しました。


今思うとあの頃の僕は、人に認められたいという強い思いで突っ走ってた気がします。
僕も周りも若かったので、一体感のようなものがあって、目的を達成した喜びをみんなで
共有できる場でした。
掃除の経験もいい勉強でした。
お客さんに気持ちのいい環境で買い物してもらうために、くだらないプライドは捨てて、
やるべきことをやる。誰かがやらなくちゃいけないんだから。
売り場もいい経験でした。
たった一つのものを売る難しさ。売り場作り。商品の陳列のし方。照明の当て方。BGM。
消費者の心理。苦情への対応のしかた。売れる商品の見分け方。
売り場を経験せずに広告宣伝を考えるのは、あり得ないことだと分かりました。


次に本社に移り、広告やカタログのアイデアを考え、撮影現場に立ち会うようになりました。
スタッフの言いなりにならないよう、自分でもこんなものを作りたいとイメージしました。
構図のセンスはこのとき身に付いたものだと思います。
はじめのうちは次はこんなことをやろうと、海外の雑誌やファッション雑誌を切り抜いて
スクラップしていました。気に入ったポストカードのコレクションも始めました。


海外にロケに行くようになったので、自分も写真を撮ろうと思い、一眼レフを買いました。
どうせなら仕事にも使えるようにと、当時プロが使っていたニコンF3をボーナスで買いました。
27歳でした。
分からないことは本を読むより、現場でカメラマンに聞きました。
とにかく写真を撮ることが面白くて、どんどんはまっていきました。


30歳の時に、僕が企画した水着キャンペーンのノベルティ(おまけ)に当時売り出し中だった
写真家三好和義さんのポートフォリオ(8枚組の大判カード)をと思いつき、三好さんの事務所
に写真を選びに行きました。


彼はスクリーンを下ろし、プロジェクターで100枚ほどの写真を映写してくれました。
そこにはテーマである「楽園」、南の島の気持ちいい瞬間が写っていました。
僕は写真を選びながら思いました。こんなすばらしい仕事があるんだ。
気持ちのいい場所に行って、思うままに写真を撮って、それが売れる。それで仕事になる。
心から羨ましいと思いました。
それから僕の中で「写真家」という言葉が、日々大きくなっていきました。


一年半後、2週間の出張であの広いオーストラリアに出会い、自分が撮りたいものが何となく
見えた気がしました。
出張帰りの飛行機の中で、僕は10年勤めた会社を辞める決断をしました。



2005年6月25日

HABU